2018年06月18日
地震
大阪北部で地震。
否応なく阪神大震災を思い出す。
もろ地元だったので、まずは親戚や同級生の安否確認。
阪神大震災のときよりも震源に近いところ
揺れの大きかったところに親戚や友達が多い。
あの頃と大きく違うのは、情報伝達手段。
当時は大学生で愛知県在住。
アパートで棚にあった小物が落ちてきたくらい。
早朝だったけれどすぐに実家から電話。
どこで起きたものかわからないから
母は私を心配してきた。
実家の中はぐちゃぐちゃで殆どの食器が割れたこと
否応なく阪神大震災を思い出す。
もろ地元だったので、まずは親戚や同級生の安否確認。
阪神大震災のときよりも震源に近いところ
揺れの大きかったところに親戚や友達が多い。
あの頃と大きく違うのは、情報伝達手段。
当時は大学生で愛知県在住。
アパートで棚にあった小物が落ちてきたくらい。
早朝だったけれどすぐに実家から電話。
どこで起きたものかわからないから
母は私を心配してきた。
実家の中はぐちゃぐちゃで殆どの食器が割れたこと
父が本棚から落ちてきた本に埋もれたこと
でも誰も怪我なく無事だということ
それだけ確認して以降、電話回線はパンク。
携帯もなくテレビに映し出される映像だけが頼り。
今は、ほとんどラインで確認できてしまう。
23年前の出来事。
その時は新幹線も含めいろいろ交通手段が寸断されたけど
2日後に南海が運転を再開したのですぐに帰阪した。
ちょうど後期試験期間中だったのだけど
とても有難いことにうちの大学は
実家が被災したもの、被災地にボランティアにいくものは
追試を認める、と即通達してくれた。
今でも思う、我が母校の誇り。
実家に帰り、玄関に一番近い私の部屋で親子3人川の字で寝た。
使える交通手段が限られていたけれど線路を歩いたりして
避難所にいる幼なじみのところに行ったり
赤ちゃんのいる知り合いに粉ミルクを届けたり。
この時に、それまでテレビで見ていた映像の場所を見る。
どれだけ鮮明な映像であっても
その場に漂う空気、温度、それはそこにいなきゃわからない。
それを強く感じたこと、今もはっきり覚えてる。
でも誰も怪我なく無事だということ
それだけ確認して以降、電話回線はパンク。
携帯もなくテレビに映し出される映像だけが頼り。
今は、ほとんどラインで確認できてしまう。
23年前の出来事。
その時は新幹線も含めいろいろ交通手段が寸断されたけど
2日後に南海が運転を再開したのですぐに帰阪した。
ちょうど後期試験期間中だったのだけど
とても有難いことにうちの大学は
実家が被災したもの、被災地にボランティアにいくものは
追試を認める、と即通達してくれた。
今でも思う、我が母校の誇り。
実家に帰り、玄関に一番近い私の部屋で親子3人川の字で寝た。
使える交通手段が限られていたけれど線路を歩いたりして
避難所にいる幼なじみのところに行ったり
赤ちゃんのいる知り合いに粉ミルクを届けたり。
この時に、それまでテレビで見ていた映像の場所を見る。
どれだけ鮮明な映像であっても
その場に漂う空気、温度、それはそこにいなきゃわからない。
それを強く感じたこと、今もはっきり覚えてる。
2018年06月10日
2018年06月09日
2018年06月08日
2018年06月06日
上陸
1993年6月。
屋久島が世界自然遺産登録地になる半年前のこと。
私は父とふたりで屋久島に初上陸。
当時、父は動物園で霊長類の飼育を担当していて
自然に暮らすニホンザルの姿が見るために
日本中の生息地を訪れていた。
私はといえば
その前年に日本ウミガメ会議のお手伝いをして
屋久島が日本最大のアカウミガメの産卵地だと知り
屋久島に思いをはせていた頃。
そしてまた、ハタチになったばかりというのに
その時、私の耳には真珠腫が出来ていて、
病院のベッドが空き次第入院して
手術をすることになっていた。
連絡が来たら3日後には入院という状況で
その連絡を待つだけの日々に
何もやる気が起きず過ごしていた頃。
父の屋久島行きを知り、無理矢理ついていったのが
ハタチの娘と父のふたり旅の真相。
昼は西部林道を歩きサル会う。
夜はいなか浜でウミガメと会う。
黒味岳に登って、シャクナゲを見る。
一週間ほどの滞在で私は、将来の生きる場所を
ここ屋久島にしたい、と思った。
それが屋久島との出会い。
あれから25年。
先日、父と西部林道でサルに会って
黒味岳ではないけれど、シャクナゲを見て
ウミガメにも会いに行って
四半世紀、変わらない景色。
今も私が屋久島で大好きな景色。


